国際交流ワークショップThe Phenomenology of Human Dignity and Vulnerability
1.主催:
B03 班 Kone Foundation (フィンランド)
共催:神戸大学大学院人間発達環境学研究科 ヒューマン・コミュニティ創成研究センター
2.日時:
2025年6月7日(土)
3.場所:
神戸大学鶴甲第2キャンパスA棟3階 A347教室
4.形態:
対面のみ(言語:英語のみ)
5.参加人数:
17名
6.概要と振り返り:
本国際交流ワークショップは、「尊厳(dignity)」と「脆弱性(vulnerability)」という、現代社会において広く共有される根源的な問題に対して、現象学的アプローチを通じて理解を深めることを目的に開催された。社会的分断や不確実性が増すなかで、尊厳と脆弱性は単に倫理的・理論的な課題にとどまらず、私たち一人ひとりの生の現場に深く関わる実践的なテーマでもある。とりわけ現象学は、抽象的な理念を前提とするのではなく、身体性や情動、対人的関係といった具体的な経験の記述を通じて、人間の尊厳がいかに生成され、また損なわれうるのかを描き出す有効な方法論である。
今回のワークショップには、フィンランドから2名、日本から2名の研究者が登壇し、それぞれが異なる視点から「尊厳」と「脆弱性」に関する研究成果を英語で発表した。発表テーマは、痛みの経験や排除の感覚、羞恥や応答責任といった多様なトピックにわたり、参加者に新たな思考の視座をもたらした。小規模な開催ではあったが、その分、参加者同士の距離も近く、登壇者と聴衆の間で活発な対話が行われたことは特筆に値する。質疑応答の時間には、立場や専門を問わず多様なコメントが寄せられ、テーマに対する関心の高さと、思索を深めようとする意欲が随所に見られた。本ワークショップは、文化や学問分野を越えた対話を可能にする貴重な場となり、今後の研究交流や共同研究の可能性をも広げる意義深い機会となった。
最初の発表者であるIrina Poleshchuk氏(ヘルシンキ大学・ヨーロッパ人文大学)は、「Phenomenology of Living Pain: Shame, Guilt and Regaining Dignity in Long Lasting Pain Experience」と題し、慢性痛における尊厳の回復をめぐる現象学的考察を展開するものである。発表では、まず痛みが単なる感覚的現象ではなく、感情や文化的意味づけと不可分であることが強調された。痛みは生物的であると同時に文化的でもある「生物文化的現象」として捉えられ、個人の身体経験は社会的・歴史的文脈の中で形成される。とりわけ、感情や意味の構築が痛みの経験に深く関与するという点に注目し、痛みをただの生理的反応としてではなく、個人の尊厳や倫理性に関わる出来事として再解釈する必要があると論じられた。Poleshchuk氏は、痛みの歴史的表現が神学的、戦争的、法的、医療的な文脈において形成されてきたことを示し、こうした枠組みが身体をもつ当事者の声を排除する危険性をはらんでいると指摘する。また、David MorrisやByron Goodら現代の現象学なアプローチを使っている医療人類学者の研究を参照しながら、慢性痛の内在的かつ相互主観的な側面を明らかにしようとする試みが紹介された。痛みは言語化しきれない経験であり、その表現の困難さが痛みに伴う孤立感や恥、主体性の喪失と深く結びついている。本発表では、痛みを時間的に継続する主体性の経験として捉え直し、その中でどのようにして人が尊厳を保ち、あるいは再構築していけるのかという問いが中心的テーマとして据えられていた。このアプローチは、単に痛みを軽減することを超えて、痛みの中で生きることの意味と倫理性を問い直すユートピア的試みとも言える。
次に登壇した松葉類氏(立正大学)の発表「Levinas and Figures of the Excluded」では、「人間の尊厳」とその制度化の鍵となる「人権」概念を出発点に、そこから排除される存在に注目し、哲学的に再考する試みがなされた。人権は1789年の『人権宣言』に由来し、すべての人間に生まれながらにして自由で幸福に生きる権利があるとされるが、現実には「囚人」や「狂気に陥った者」など、制度から排除される存在が常に存在してきた。松葉氏はまず、ミシェル・フーコーが1970年代初頭に取り組んだ監獄制度への批判に言及し、フーコーが他の知識人たちと共に設立した「監獄情報グループ(GIP)」の活動や、『監獄の誕生』1975年)における権力構造の分析を紹介した。その上で、同時期に活動していたユダヤ系哲学者エマニュエル・レヴィナスとの思想的連関を探る。両者は直接的な対話はなかったものの、「囚人」や「狂気」といった排除された他者の姿に共通の関心を抱いていた。レヴィナスは『存在するとは別の仕方で、あるいは本質を超えて』(1975年)において、「囚人」や「精神障害者」といった存在が国家と医学による抑圧の対象でありながら、なおも「正義」を問い直す声として現れることを論じている。この「語りの破綻」が、他者からの呼びかけを通して倫理の再構築を促すという点で、レヴィナスにとって彼らは単なる社会的弱者ではなく、倫理の根本を揺さぶる「他者」の姿を体現している。本発表では、こうした排除された存在の哲学的意味を深掘りすることで、レヴィナスにおける「人権」概念、特に「他者の権利」としての人権の再定義を目指す。抽象的理念としての人権を、具体的かつ実践的文脈で読み解く試みとして意義深い発表となった。
続いて、Joonas Martikainen氏(トゥルク大学)の発表「Losing a Voice of One s Own: Social Suffering, Shame, and Loss of Agency」では、「尊厳(dignity)」という概念を出発点に、現代社会における政治的主体性の喪失と、それに伴う「声の消失」という現象を現象学的に考察した。フィンランド語の「ihmisarvo(人間の価値)」に示されるように、すべての人間が尊厳ある人生を送る価値をもつという感覚は、決して個人の内面だけで完結するものではなく、社会構造と密接に関係している。Martikainen氏は、フィンランドと日本の両国において、経済的不平等や公的ケアの不足といった社会問題が、依然として多くの人々から尊厳ある生活の可能性を奪っていると指摘する。とりわけ注目されたのは、「尊厳」と「政治的声(public voice)」との関係である。尊厳を感じることができる人は、自らを対等な政治的主体として捉えることができるが、それを失うと、自らの意見を表明し、行動する能力も喪失してしまう。その結果として現れるのが「声の喪失(aphonia)」であり、それは繰り返される屈辱や恥の経験によって引き起こされる社会的苦悩(social suffering)である。Martikainen氏はこのような現象を、「政治的貧困(political poverty)」という独自の概念のもとで研究しており、今回はその一側面として、羞恥心がどのように人々の主体性を奪い、自己擁護の声を封じてしまうかを論じた。身体の現象学、とくにモーリス・メルロ=ポンティの理論を参照しながら、声を奪われた身体のあり方を読み解く試みがなされている。この発表は、哲学的概念としての尊厳を、社会的・政治的現実の中で捉え直す挑戦的な内容であり、「声をもつこと」そのものの倫理的・政治的意義を深く問いかけるものであった。
最後に、小手川正二郎氏(國學院大學)の発表「Human Dignity and Vulnerability: Levinas and Second personal Ethics」では、人間の尊厳と傷つきやすさ(vulnerability)との関係を、スティーヴン・ダーウォルの「二人称的倫理」とエマニュエル・レヴィナスの倫理思想を比較することで検討した。発表冒頭で小手川氏は、人間の尊厳に関する二つの主要な立場を整理する。一つは、すべての人が生まれながらに尊厳を持つとする「持参金コンセプト」であり、キリスト教的価値観に由来する。もう一つは、理性や自由意志といった能力に基づき尊厳を認める「能力コンセプト」である。しかし後者は、胎児や重度障害者など、能力を持たないとされる存在を尊厳の枠外に置くリスクをはらんでいる。ダーウォルはこの問題に対し、人間同士が互いに「要求し、応答する地位(standing)」を持つという「二人称的関係」から尊厳を再定義する。この視点では、尊厳とは他者との関係性に根差したものであり、個人の能力に依存しない。さらに小手川氏は、ロバート・スターンの批判的議論を紹介する。スターンは、ダーウォルの主張する「内容から独立した命令」は倫理的行動の理由としては不十分であるとし、ロイストロプの他者への依存と傷つきやすさに基づく立場から再考を促す。その上で、レヴィナスは他者の脆弱性だけでなく、他者からの倫理的要請に対して応答せざるを得ない自己の脆弱性にも光を当てる。本発表は、従来の尊厳論の枠を超えて、他者との応答的な関係の中にこそ尊厳が立ち現れるという新たな倫理的視座を提示した点で、意義深いものであった。
これらの発表を通して明らかになったのは、「尊厳」とは決して抽象的な理念や、あらかじめ個人に備わっている固定的な属性ではなく、他者との関係性のなかで絶えず生成され、損なわれ、そして回復されうる、動的かつ相互依存的な経験であるということである。痛み、排除、羞恥、応答責任といった異なる切り口からの探究を経て、尊厳は「守られるべきもの」であると同時に、「関わり合いの中で立ち現れるもの」として捉え直されるべきであるという理解が共有された。現象学的アプローチは、その人の身体や感情、社会的文脈に根ざした経験を丁寧に記述することで、こうした尊厳の動的側面に光を当てる強力な手法となる。また、ワークショップ全体を通じて、登壇者だけでなく参加者からも多くの問いやコメントが寄せられ、質疑応答の時間が非常に活発なものとなったことも特筆すべきである。立場や専門を超えた対話が行われたことにより、多角的な視点からの考察が促進され、議論の深まりにも大きく寄与した。本ワークショップは、異なる文化的・学問的背景をもつ研究者たちが一堂に会し、尊厳と脆弱性という普遍的かつ現代的なテーマに対して学際的な視野からアプローチする貴重な対話の場となった。今後もこうした哲学的な思考の交差点から、より豊かで現実に根ざした尊厳理解が深化していくことが期待される。
登壇者5名の講演が終わった後、B03班の分担研究者である日笠晴香氏(岡山大学学術研究院ヘルスシステム統合科学学域)が各登壇者へ向けて建設的なコメントと問いを出した。登壇者間の対話や議論が重視され、フロアの参加者も互いの意見を交換することができた。ディスアビリティとジェンダーの交差性を考えることは、今後の尊厳学において重要な示唆を得るきっかけになるだろう。
(文責:稲原美苗)