概要
B03班「ケイパビリティ毀損と人間の尊厳−−福祉経済政策の倫理と哲学−−」の目的は、「尊厳」の毀損という観点および当事者研究の観点から、障害者・認知症患者等の介護政策や貧困政策等の実態を調査・分析し、より包括的な福祉経済政策を提言することにある。具体的には、介護政策・障害者政策・貧困政策などの社会福祉の現場において、第一に、「倫理的グループ」(互いの境遇に等しく関心を寄せ、等しく尊重する)の概念を鍵として、脆弱性(vulnerability)をもつ人々の「尊厳ケイパビリティ」を測定し、評価する方法を理論的・実証的に解明することにある。第二に、「互酬するケイパビリティ」の概念を鍵として、ケアする人々とケアされる人々の関係性にもとづく「相互的ケイパビリティ(reciprocal capability)」を測定し、評価する方法を理論的・実証的に開発することにある。
学術的背景
リベラリズムはこれまで、尊厳概念の使用を注意深く避けてきた。思考の停止や論理の飛躍を伴う「熱い推論」(ハーバード・サイモン)を招き入れかねない、あるいは、完全主義(perfectionism)・卓越性(excellence)へと人々を追い立てかねないと警戒された。
だが、現実には、むかしもいまも、戦時にも平時にも、尊厳の毀損に脅かされている人々の悲鳴にも近い声がある。<辱め>の感情に打ちひしがれながら、なおも尊厳の回復を希求する静かなまなざしもある。<辱め>の感情は、暴力、虐待、無視などの被害体験から生ずるのみならず、看護や介護などの手厚いケアを受ける体験からも醸成されかねない。権利や機会、所得や富、自尊の社会的基盤など、これまでリベラリズムが当是としてきた「社会的基本財」の公正な分配(Rawls, 1971)ではとらえきれない何かが、尊厳概念にはありそうだ。
例えば、権利を個人の行使し得る「切り札」と呼んだロナルド・ドゥオーキンは、受刑者と認知症患者たちを前にして、「尊厳への権利」を次のように定義した。尊厳とは、「自分では上手くできづらいときにも身辺の清潔さが保たれていること、真正なプライバシーを享受できないほどの群居を強いられていないこと、適度に個別的な注意と関心が向けられていること、他者に言動を無視されたり、ひたすら従順になるように鎮静化させられないこと」と。「尊厳への権利」とは、「便益を受ける諸権利(the right to beneficence)のように利用可能な資源に依存することのない、根本的かつ緊迫性をもった権利」に他ならないと。
尊厳をめぐる彼の議論は、リベラリズムを擁護する彼自身の立ち位置を一歩、踏み出すかのように見えた。個人を意思決定の主体として尊重しながらも、同時に、本人のできづらさを補い、できることを拡げるような外的介入を積極的に容認するからである。
だが、これにつづくドゥオーキンの「生の意思(living will)」に関する議論は、再び彼を厳格な個人主義的リベラリズムにつれ戻す。「切り札」としての尊厳への権利を、実際に行使するか否かはもっぱら、個人の自律的な意思決定に委ねられるからである。彼は言う、尊厳を失うことよりもっと悪いのは、自分が尊厳を失っていることに気づかないことであると。彼の議論では、本人が気づかない限り、たとえ本人の尊厳を毀損する行為がなされたとしても、他者が本人の利益を守ることは論理的に不可能となる。
マイケル・ローゼンは、尊厳への権利の実現を、行為主体間の関係性と結びつけることによってドゥオーキンの議論を退けた。彼は「辱められたり、貶められることで、敬意を欠いた扱いをされてはならない」ことを「自らの尊厳に敬意を払ってもらう権利」と呼ぶ。そして、「われわれには端的に、人間性を敬う義務がある」、「他者の人間性を敬わなければ、私たちは実際に自分のなかの人間性をも掘り崩してしま」いかねない、他者の「尊厳の否定は悪へと向かう心理的な道を開く」おそれがあると主張する。
彼によれば、人を貶める扱いの要点は、「テーブルマナー、トイレ使用など、取るに足らない些事」への介入を通して、「個人を本人の属していた社会的地位からひきずりおろす企み」、さらには、「個人を人間という地位からひきずりおろす企み」にある。その最終的な目的は、被害者の「尊厳に対する能力」を掘り崩すことにおかれる。
ケイパビリティ・アプローチを主唱するマーサ・ヌスバウムもまた、「尊厳に対する能力」に着目する。個人の「[平等な選挙権や宗教的自由、平等な教育へのアクセス、適切な居住の権利や雇用の権利に関する]ケイパビリティが、平等な尊厳と本質的につながっている理由は、それらが格別に人間的だと思われる二つの観念―辱めを受けないこと(nonhumiliation)という観念と相互性(reciprocity)の観念―と関連しているからだ」とヌスバウムは言う(Nussbaum, 2006=2012, 382)。彼女が「相互性」の観念に言及する理由は、個人のケイパビリティの実現は、他者との双方向的な関係に依存すると考えるからである。
研究課題の核心をなす学術的「問い」
本研究の学術的独自性は次の点にある。ケイパビリティ概念の特徴は、個人の選択の自由を尊重する一方で、個人(主体)の客観的な機会集合を捕捉する点にある。たとえ達成点が高いとしても、本人が、選ぼうと思えば選ぶことのできたはずの生の範囲が狭いとしたら、彼/彼女は豊かな自由を享受しているとは言えないからだ。
だが、ここには自然・人文・社会科学が共通に避けて通ることのできない方法的難問が潜んでいる。はたして、実際に観測された達成点(多次元ベクトル)をもとに、観測不可能な機会集合を推定できるのだろうか。達成点とは別の点を選ぶとしたら、機会集合そのものが変化してしまうおそれはないのだろうか(物理学でいうところの「観測問題」)。
本研究はこの難問に対して、「倫理的グループ」の概念をもって対処する。「倫理的グループ」とは、自分を含むメンバー個々人の達成点の集積を、「グループの代表的個人のケイパビリティ」とみなし得る最大単位を指す。操作的にはそれは、少なくも部分的に個人間比較可能であること、例えば、グループ内で最も不遇な人々の境遇に焦点を当てて、「基本的ケイパビリティ」を保障する政策を要求し得ることを意味する。このアイディアは、個人間比較可能性を事実的概念ではなく、規範的概念としてとらえ返すことにより、上記の方法的難問に一定の解答を与える点で、学術的独自性が高い。
本研究の創造性は次の2 点にある。第一に、尊厳概念を光源として、介護政策・障害者政策・貧困政策などの社会福祉の現場で、リベラリズムが先送りしてきた難問を照射する点にある。どこまでを個人の自律と自立、機会の平等と自由な競争市場、個人別衡平性と私的契約主義に委ねることができるのか。どこからすべての人に対する無条件の保護、等しい配慮と等しい尊重、結果的な平等の実現に向けて公共性を発動させるべきなのか。
本研究の創造性は、第二に、尊厳概念を導入することにより、介護政策・障害者政策・貧困政策などにおいて、従来とはまったく異なる発想の政策提言を可能とする点にある。例えば、ある個人に深刻な自尊感情の喪失が観察されるとしたら、たとえ身体的には就労能力が十分あると判断されても、「尊厳に対する能力」は十分とはいえず、労働市場への参加は困難であるおそれがある。その回復を待つ間、生活保護や就労支援などの公的扶助を受ける十分な理由となるだろう。