ワークショップ現象学と尊厳―経験と差別を考える
1.主催:
B03班
共催:神戸大学大学院人間発達環境学研究科 ヒューマン・コミュニティ創成研究センター
2.日時:
2025年2月15日
3.場所:
神戸大学鶴甲第2キャンパス F棟1階 F151
4.形態:
対面のみ(言語:日本語のみ)
5.プログラム:
- 13:30~13:40
- 開会・趣旨説明司会:稲原 美苗 (神戸大学大学院人間発達環境学研究科)
- 13:40〜14:20
- 有坂 陽子 (南山大学宗教文化研究所) 「民主主義における個人の尊厳と障害のパラドックス」
- 14:20~15:00
- 小手川 正二郎(國學院大學 文学部)「日常的人種差別と人間の尊厳―現象学的観点から」
- 15:00~15:20
- 休憩
- 15:20~16:00
- 稲原 美苗 (神戸大学大学院人間発達環境学研究科)
「ディスアビリティとジェンダーの交差性と障害のある女性の尊厳―フェミニスト現象学的観点から(仮)」 - 16:00~16:15
- コメント後藤 玲子 (帝京大学経済学部)
- 16:15~17:00
- 全体対話 (質疑応答)
6.参加人数:
21名
7.概要と振り返り:
差別や分断が生まれる背景には、あるグループに所属する人々に対して、特定の性格や性質をそのグループの全員が持っていると思い込んでしまう「固定観念」があると考えられる。その固定観念に対して好感、憧憬、嫌悪、軽蔑などといった感情を抱き、それに伴った態度が「偏見」である。近年、差別を解消することを目的にした法律が施行されたが、差別や分断が深刻化している。性別や人種、障害の有無などの違いで固定的な思い込みや偏見を持つことによって、その人の性格や性質を勝手に決めつけ、尊厳を毀損してしまう可能性が高くなる。本ワークショップでは、当事者の「尊厳」に注目し、差別されるとはどのような経験か、どのようなケースが差別になるのかという問いを探究し、差別問題への現象学的なアプローチを試みた。特に、現象学を専門としている3名の登壇者たちは、障害、ジェンダー、人種に対する日常的な差別や偏見について向き合い、当事者の視点だけではなく、無意識的に差別をしてしまう人々や傍観者の視点についても考えた。
まず、有坂陽子氏(南山宗教文化研究所・ヒルデスハイム大学)が「民主主義における個人の尊厳と障害のパラドックス」というタイトルで講演を行った。有坂氏は、民主主義からくる「平等」について考えるところから始め、抽象的・普遍的であると捉えられてきた「人間の理性」に基づいた「個人」の尊厳のなかでは、マジョリティ(健常者)を中心としており、マイノリティー(障がい者)は法的には「個人」として認識されるが、その個人の経験内容は法的な平等には現れない不平等が多くある。理性的なマジョリティとしての「個人」を疑問視する必要があり、そのために現象学が役に立つと考えた。彼女は「障害というもの」は存在せず、「障害」という単語は多くの生きづらさの現象を取りまとめて示唆する健常者側からの表現であると言う。「障害者」というアイデンティティは健常者から当事者に押し付けるものではなく、当事者がそのアイデンティティをもつかもたないか自分で決めるべきだ。障害を身体障害(見える障害)とアスペルガーや聴覚障害、発達障害など(見えない障害)に分けて考えることができるが、見える障害は主体化されやすく、見えない障害は「特徴」として捉えがちである。しかし、どちらの障害も「全体化」されると彼女は考え、当事者は他の特徴や能力を見逃されがちになってしまうと示唆した。それぞれの立場(当事者、経験者、関係者、第三者)から差別経験や生きづらさについて語る場合、第三者が障害について語ると、その経験が一般化されてしまい、経験の「乗っ取り問題」が起こる恐れがあると、有坂氏は考えた。講演の後半で、個人の障害に関する尊厳のパラドックスについて語り、文化・集団的な特徴ではなく、そのような全体化された特徴は個人の人格に帰せられてきたことを説明した。民主主義における平等を超えての認識、尊厳が必要だと訴えた。平等であるという状況や社会がいかにマジョリティ(健常者)を前提として構築されているのかと疑問視し、個人の問題だけではなく社会の問題であるということをしっかり重視することが必要である。
次に、小手川正二郎氏(國學院大學文学部)が「日常的人種差別と人間の尊厳――現象学的観点から」というタイトルで講演をし、日常的人種差別の事例を手がかりにして、現象学的な観点から尊厳概念の必要性と解釈の可能性について考えた。まず、小手川氏は人種差別と尊厳の関係性のなかにパラドックスがある可能性について述べ、「人間の尊厳」と「個人の尊厳」を区別することだけではそれは解消しがたいことを指摘した。次いで、政治哲学者のジェレミー・ウォルドロンによる尊厳概念の解釈に基づき、ヘイト・スピーチによって、(他者による差別や排除などに直面しなくてもよいという)安心をもてないということは、尊厳を毀損されていることになると考察した。つまり、差別のターゲットとなった集団に属する人々は、安心できずに暮らす羽目になり、あらゆる面で自由を奪われてしまう。講演の後半で、彼は、ヘイト・スピーチとは区別される日常的人種差別における「尊厳の毀損」の現象学的な分析を展開した。特に、彼は、中国系ベトナム人の両親をもつオーストラリアの哲学者ヘレン・ンゴのフランス・パリを訪問した際の市場での事例を挙げて、彼女の日常的人種差別の経験について分析した。ヘイト・クライムやヘイト・スピーチのような悪意のある言動ではない多くの悪意のない人々の言動の連鎖によって、何が毀損されるのかについて考え、被差別者があるがままの自分でいれるための「自尊」であると、その問いについて答えた。
休憩を挟んで、稲原美苗(神戸大学人間発達環境学研究科)が「ディスアビリティとジェンダーの交差性と障害女性の尊厳―フェミニスト現象学的観点から―」というタイトルで講演をし、障害があり、女性であることによって複合差別を被る経験について考えた。まず、国連の「障害者の権利に関する条約(略称:障害者権利条約)」のなかの第6条「障害のある女子」についての条文を紹介することから始めた。社会学者の土屋葉らの著書を参照しつつ、複合差別の経験を分析し、障害女性はこれまで、女性に対する政策やフェミニズムからは障害者としての問題が取りこぼされ、また障害者に対する政策や障害者運動からは女性としての問題が取りこぼされてきたことを明らかにした。障害者差別と女性差別が重なることによって、障害女性の「生きづらさ」をより深刻化させる。女性差別は私的領域(家庭や密室)で起こる差別であり、「深刻ではない」と見做され、軽視されてしまう傾向が高いと言う。その後、稲原は尊厳と差別の関係性について述べるために、まず、尊厳と人権のつながりについて取り上げ、人権を守るためには尊厳が必要であり、差別者は被差別者または被差別集団に属している個々人がもつ生命や人格を尊重し、その価値を認める態度をとることができない存在であると言及した。講演の後半で、メルロ=ポンティの影響を受けたフェミニスト現象学について説明し、稲原自身の経験を使いながら、障害女性の複合差別やインターセクショナリティ(交差性)を考える際になぜその考え方が必要なのかを検討した。
登壇者3名の講演が終わった後、B03班の研究代表者である後藤玲子氏(帝京大学経済学部)が経済哲学とケイパビリティ(潜在能力)アプローチの観点から各登壇者へ向けて建設的なコメントと問いを出した。主に2つの関心、①尊厳概念に関する内容的関心(尊厳概念によって何を説明できるのか,説明すべきなのか)、②尊厳研究に関連する科学・学問の方法論的関心を提示し、議論が進められた。特に、個人(の人格)が特定の障害、集団的特徴・文化的特徴などにより,全体化、ジェンダー化、人種化される恐れについて言及し、福祉政策という立場から改めて現象学に何ができるのかを問うた。その後、被爆者のケースを挙げて、適切な社会的支援を行う際に、グループの中の個々人の差異を捉えつつも、最も不遇な人々(例えば、インターセクショナリティをもつ個人)に焦点を当てる必要性について言及した。一定のグループ内では互いの困難体験を個人間で比較する(換言すれば,想像上の立場の交換をなす)可能性が想定されていると言う。救済や支援策ができるプロセスでは、当事者間での比較が必要になる。後藤氏が示した「人種化・グループ化への抵抗としての個人」の図が示した「グループ・ケイパビリティのユニオン」という新しい個人の捉え方が、マイノリティ当事者同士の連帯を生み、新たな救済・支援策がつくられるきっかけになるのではないだろうか。現象学とケイパビリティという2つのアプローチを今後も探究し、尊厳学の確立に向けての新たな方法論を提供できるだろう。その後、登壇者間の対話や議論が重視され、フロアの参加者も互いの意見を交換することができた。
(文責:稲原美苗)